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尚州の歴史

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近代

尚州の歴史

1895年(高宗32年)の甲午改革で8道地方制度は廃止され、23府331郡に改編された。これは大地域主義から小地域主義に転換されたためであり、道以下の府、牧、郡、懸を皆郡に一括整備して地方行政体系を単一化し、府には観察使を設置して郡には郡守を置いた。この時、尚州牧は尚州郡(23面管轄)に、咸昌懸は咸昌郡となって安東府に属した。


1896年8月4日、勅令第36号により全国23府を13道に整備した。この時、慶尚道は慶尚北道と慶尚南道に区分され、名郡は領域の大小によって区分されて尚州、慶州は一等郡に、大邱、星州、安東は二等郡、咸昌は4等郡になるなど、41郡が慶尚北道に属した。


1905年11月4日、尚州出身の韋庵張志淵先生が乙巳条約の強制締結と不当性を指摘しながら皇城新聞に是日也放声大哭を掲載して停刊処分にあった。


大韓帝国高宗光武9年(1905年)、全国を8道に改編して尚州郡は31面から22面に改編された。


1906年、全国は13道3,335面、慶尚北道は41郡507面に整備され、尚州郡は最初31面から21面に改編された。この時、丹東、丹西、丹南、丹北の4面は比安郡(今の義城郡)に、永順、山東、山西、山南、山北の5面は聞慶市に渡された。


日本帝国占領期の1910年9月30日、道の観察使を長官に改称して府に府尹、郡に軍守、面に面長を置いた。


1912年、市街地及び道路整備の名目で尚州城が取り崩され、1924年最終的に残っていた南門さえ失われた。


1914年3月1日、地方行政区域は12府218郡2,517面に改編された。この時、咸昌郡7面が3面に改編されて尚州郡に編入され、尚州郡22面は15面に改編され、尚州郡は18面に整備された。


1917年6月には面制が公布され、面において教育事務を除く管内のすべての公共事務を処理するようになり、1919年8月には道の長官を道知事に改称して警察権を行使した。


1931年4月1日、邑面制実施により尚州面が邑に昇格し、尚州郡は1邑17面を管轄した。