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尚州の歴史

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三国時代

尚州の歴史

三国史記及び三国遺事には尚州に沙伐国があったことが記録されている。三国史記地理志及び列伝によれば、新羅沾解王(247~261)の時に新羅に属していた沙伐国が態度を変えて百済に属した。百済は沙伐国に使臣を送って強化しようとしたが、その王がそれに反対したので百済は昔于老将軍を送って沙伐国を征腹したと書かれている。沙伐国は百済と新羅の領土拡張に押され、西暦249年新羅に併合されたものと見ている。またB.C.1世紀頃、咸昌地域には高霊伽揶国があったと推定されている。


新羅沾解王の時に新羅に併合された沙伐国は、法興王12年(525年)に沙伐州を設置して伊登を軍主とした。新羅は地方区画を5州に分けて地方長官を軍主とした。この時から新羅に編入されて5つの州のうちの一つとなった。


* 全国5州設置時の現況 ① 上州(尚州)、 ② 下州(昌寧)、 ③ 韓山洲(慶州)、 ④ 悉直州(三陟)、 ⑤ 比列忽州(安辺)


真興王13年(552年)に軍事組織として5州に6停を置き、尚州停に1軍団を設置した。


真徳女王2年(648年)に信将軍を尚州行軍総管に任命し、新羅が百済との戦いの時に前方基地として活用するなど、軍事的に非常に重要な地域となった。


太宗武烈王(660年)が信、品日、欽春の軍士を百済征伐に出場させたりしながら今突城に37日間とどまった後に百済義慈王の降参報告を受けて扶余の所夫里城に出発したという記録がある。(今突城は現存する城のうち新羅時代で一番古い石城である - 国防遺跡史蹟30号)


* 百済征伐の前進基地の役割


文武王13年(673年)、尚州停を貴幢に昇格改編し、三国統一以後も政治、軍事的に重要な地域となった。


新羅の軍事編制は停と幢で組職されたが、これは軍営、軍団、部隊などに該当し、大幢は首都である慶州付近に、貴幢は地方の重要な軍管区に置かれた。