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尚州の歴史

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朝鮮時代

尚州の歴史

慶尚道監営が高麗末には慶州にあったが、太祖元年(1392年)には尚州牧に設置され、太宗8年(1408年) 8月まで4名の慶尚監司が尚州牧使を兼ねた。


※ 牧使は一般的に行政区域の名称が州になっている所に設置された。職級は正3品だが、より高い品階を持つ人が任命される場合があり、正2品が任命される場合には領牧使、従2品である場合には判牧使と言われた。


- 地方守令中、一番品階の高いものは従2品の府尹で観察使と格が同じであり、観察使が府尹を兼ねた場合もあった。朝鮮時代に府尹を設置した所には平壌、咸興、義州、広州、慶州などがあった。


- 軍事的な用途で設置した大都護府使は安東、江陵、寧辺、昌原、永興等に設置された。


- 地方長官である観察使は従2品で行政、司法、軍事権を掌握し、任期の間観察を巡歴する行営体制だったが、朝鮮中期の文禄・慶長の役以後、留営体制に変わり、任期は2年となった。補佐官としては都事、判官などがいた。


太宗13年(1413年)には全国を京幾、忠清、全羅、慶尚、江原、黄海、咸鏡、平安道の8道に分けて地方体制を整備した。


- この時、道単位の間での区域調整があり、長期間尚州管轄に属していた清原、沃川、報恩、永同、黄澗一帯が忠清道に移管された。


- 朝鮮初期の地方制度は高麗末の制度をそのまま踏襲したが、太宗の時に至って初めて州名中心に道名を変えて8道体系を確立した。


- 当時尚州管轄の慶尚道は今日の釜山、大邱、蔚山広域市と慶尚南、北道を含む地域であり、全国地方制度のうち一番広い面積だった。


※ 8道地方体制及び監營設置現況

① 京畿道(漢城) ② 江原道(原州) ③ 全羅道(全州) ④ 黄海道(海洲) ⑤ 平安道(平壌) ⑥ 咸鏡道(咸興または永興 ⑦ 忠清道(忠州 ⑧ 慶尚道(尚州)


慶尚道が他道に比べて人口が多く地域が広いため、太宗7年(1407年)には洛東江を境界として西側を右道、東側を左道に区分し、右道監司は尚州牧使が、左道監司は慶州府尹を兼ねたことがあった。


朝鮮世祖3年(1457年)、各道に軍事組織である鎮が設置され、尚州牧は牧使兼慶尚右道兵馬節度使を置いたが、すぐ鎮に戻された。


世宗30年(1448年)7月から端宗2年7月までの6年間、4名の慶尚監司が尚州牧を兼ね、世祖11年(1465年)9月都観察黜陟使を観察使として呼ぶようになり、朝鮮後期まで至った。


燕山君3年(1564年)11月、李克均が慶尚右道地図を奉ったと記録されている。


中宗14年(1419年)にも慶尚道の業務が過重だと言うことから、以前のように区分して右道監司は尚州牧使を兼ねて左道監司は慶州府尹を兼ねるようにするなど、一時的に2名の監司を置いたりしたが、すぐ元の状態に戻された。


宣祖25年(1592年)文禄・慶長の役により道路が不通となったため、左道は慶州、右道は尚州に監営を設置した。同26年(1593年)に再び戻されて星州の漆谷懸(現在の漆谷郡)に臨時監営を設置し、同28年(1595年)にはまた左右道に分けて監営を分離、同29年(1596年)には逹城郡に、1599年(宣祖32~33年)には安東に臨時設置してから1601年(宣祖34年)に大邱に移された。


1592年11月、尚州仮判官、鄭起龍が尚州城を奪還した。


※ 朝鮮初期から中期まで201年間尚州に設置した慶尚監営が文禄・慶長の役の7年を通じて数回監営を移す受難にあったのは、1592年4月に北上する倭軍に尚州でぶつかった李鎰の官軍が北川で大敗し、尚州城が陷落し、申さえも忠州で戦死したためソウルから南側の交通が麻痺して本来の機能を果たせなかったためである。尚州監営は大邱監営が定着して韓末(1894年)まで存続しながらその地位を失った。


宣祖35年(1602年)、鄭経世らが文禄・慶長の役の後に蔓延した疾病を治める目的で青里面栗里に民間で最初の私設医療機関である存愛院を建てた。


英祖25年(1749年)商山誌を増補する当時、尚州牧管轄31懸行政区域は次のように記録されている。 (内東、内西、内南、内北、中北、中東、丹東、丹西、丹南、丹北、外東、長川、青東、青南、功東、功西、功南、牟東、牟西、化東、化西、化北、銀尺、外西、外北、永順、山東、山西、山南、山北、大坪)


高宗6年(1869年)10月、文禄・慶長の役(1592年)の後に廃墟となった尚州城を牧使ナム・ジョンハクが修築中に離任すると1870年後任牧使ミン・チソが北門など4大門を修理し、1871年牧使チョ・ビョンロが続けて修築した。